Photo by Kondo Atsushi

「実力不足だと分かっていても、自分からは絶対に言わない」

永田裕志 #1

今回のアチーバーは、今年デビュー30周年を迎え、今も現役を走り続ける新日本プロレスの永田裕志さんです。永田さんは、レスリングのアマチュア選手として活躍し、24歳でプロレスの世界に飛び込みました。デビュー9年目の33歳の時に団体最高峰のベルトIWGPヘビー級王座を獲得し、それまでの最多防衛記録を更新する10度の防衛に成功。その後も、総合格闘技人気に押された時代の中心選手として業界を支え、54歳の現在も闘志むき出しのファイトでファンの支持を得ています。浮き沈みのキャリアで培った「成功」を引き寄せる自己プロデュース力、逆境に立ち向かう時に必要な思考とは―。永田さんの「WORD」から、次のアクションを起こすヒントを見つけてください。今回は全3回連載の初回です。

Q:デビュー30周年、おめでとうございます。新日本プロレス最年長の54歳とは思えない肉体を維持し、今も若い選手と真っ向勝負を繰り広げていますが、年齢との闘いという部分で特に意識していることはありますか?

今年だからとかいうことじゃなく、ここ数年ずっとそうですけど、やはり、いかに1つ1つの試合を、常に100%に近い状態で臨めるかということですね。それは、毎日積み重ねてきたことの結果なので。トレーニング方法も、ある時を境に変わってきたり、いろいろありました。若い時は練習をガンガンやって、とことん鍛え上げるという形でしたが、年齢が上がっていくことで練習内容というか、技術的なことだったり、ウエイトトレーニングでも違ったやり方をやるとかね。

Q:キャリアを振り返って、体に大きな「変化」を感じた時期はあったのですか?

40歳を過ぎた頃に、突然、今まであまり感じなかった心肺機能系がちょっと苦しくなってきた時期がありました。その頃にちょうど、久々にレスリングに携わることになったので、もう1回自分の原点に帰って、心肺機能を高める運動というのをレスリングのメニューから引っ張ってきたんですよ。それをやるようになったら、バテなくなってね。やっぱり常に自分の原点はレスリングにあるんだと思い知らされました。昔、先輩に「40になったらガクッと疲れが出るから、注意しなよ」ってアドバイスを受けたことがあったんですけど、それを感じないまま50代になった。ただ、50代に突入したらガクッと来たんです。10年遅かったなと思ったんですけど、そこからは、身体を鍛えるだけじゃなく、メンテナンスもきっちりとやるようになりましたね。

Q:レスリングでは高校時代に国体で3位、進学した日体大では全日本学生選手権、1992年には日本選手権でも優勝と輝かしい実績を残してきました。プロレスへの思いはどのように大きくなっていったのですか?

子供のときは、キン肉マンとかの影響もあって、プロレスが身近にあったのですが、プロレスラーになりたいという夢は、現実的なものではなかったです。高校でレスリングを始めたのも、個人競技で賞状をもらえることが嬉しかったからなんですよ。試合に負けても「誰々勝った、負けた永田」って新聞に出るだけで嬉しかったですから。目標という部分では、高3の時に日体大の先生から「オリンピックを目指しなさい。練習すれば誰にでも平等にチャンスがある」と言われて、そっちの夢が広がったんです。日体大は日本一の大学ですから、高校でそこそこ頑張ったといっても、先輩たちに投げられるわ、ひっくり返されるわ、抑え込まれるわで…。だから、プロレスは趣味としては見ていましたけど、プロレスラーになるというのは冗談でも言わなくなりましたね。

Q:結果的には、92年のバルセロナ五輪出場を逃したことをきっかけに、頭の中から消えていた「プロレス」の道に進む決断をされました。どのような経緯があったのですか?

プロレスラーになろうと思ったのは、本当に直前だったんです。オリンピックの資格を取りに91年の世界選手権でブルガリアに行ったんです。そこで負けて帰ってきて、次の4月のアジア選手権に出て決勝まで行かないと出場資格が取れなかったんですが、その時に突然、「人間の一生とは」とか生き死に、死んでしまうことについてすごく考えるようになったんです。それを考えると、疲れているはずなんですけど、頭が冴えて寝れなくなってしまうような感じでした。

Q:「生死」を考え始めたことが、進路選択に影響を与えたと?

先輩方でメダル候補の方々が取材とか受けてその記事が出て、世間にその頑張ってる姿がメディアを通じて投影されるというのを見ている中で、たまたまレスリングの機関誌に自分のちょっとしたインタビューが載ったんです。その時に、自分の名前が世間に少しですけど通ったというか、世間に披露できたというか。そこに自分の生きていることに対する価値観を感じたんです。当時は、十中八九、大学院を出て、最終的には教員をやろうと決めていたんですけど、そういうことを考えていく中で、世の中に自分の生きてることを投影できる仕事がいいなと。そこで、オリンピック前に突然、子供のときから好きで見てたプロレスラーの夢がウワーッと現実的になってしまったんです。

Q:24歳で新日本プロレスに入るわけですが、「五輪」に変わる具体的な目標があったのですか?

業界に入ってからはやっぱり1番になりたいと思いましたね。最後に出てきて、ベルトを賭けて戦ってそれを獲るみたいな、そこが僕にとっては金メダルに代わる大きなものでした。もちろん、チャンピオンベルトを獲るというのは、先の話だなというのは分かっていましたけど、24歳で入りましたから、焦りもありましたし、他の10代で入った同期の連中よりはやっぱりちょっと時間がないという思いはありましたね。

Q:そこからIWGPヘビー級王座という団体の頂点に位置するタイトルを取るまで、約10年かかりました。過酷な練習に耐えた若手時代、結果が出ない不遇な時代も経験されたと思います。どのように現状を捉えて、チャンスを待っていたのですか?

とにかく10年間は自分のためだけにやってました。身体づくりから技術習得とか。すぐに注目されなくても、頭を上手く切り替えて自分の下地を作ろうと。有り余るエネルギーをいろんなものにぶつけた記憶がありますね。新日本プロレスの合同練習が終わってから、キックボクシングのジムに行ったり、日体大に行ってレスリングの練習をやったり。試合の時も、他の人が一通りみんなでやるトレーニングが終わった後、他の人がやらないようなトレーニングをやったり。とにかく、いろんなことを吸収することで表に出られないことへのストレスを発散していましたし、今はそういう時期だと、それが自分のやるべきことだと思い込んで進んでましたね。「他のやつはこんなにやってないだろ、俺はこれだけやってるぞ」ってね。

Q:現在は後進を指導したりヒントを与えたりする立場でもあると思うのですが、目に見える「成果」が欲しい若い世代に対して、下積み時代の経験からアドバイスはありますか?

実力がないものを強引に引きずり起して相手にぶつけることも大事なことなんですけど、僕の場合、いろんな足りないものをつけてきたことは、後々良かったと思いましたね。大切なのは、自分のできることを1つ1つ見つけて、そこで力を付けることだと思います。いろんな競争仲間が周りにいる中で、「この人はこういうところが優れている」って見えると思うんですが、その時に、「俺もこの人と同じように」というのも大事ですが、自分のできることをより伸ばすことも大事なんですよ。個性がありますからね。

Q:永田さん自身も、周りを分析しながら自分自身を変化させていったのですか?

そうですね。僕も最初はレスリングから入ったので、レスリングの色を出したプロレスラーになったらいいかなと思ったんですけど、それだと中西学選手とかオリンピックに出た選手とは世の中からの見られ方が違うわけです。だから、レスリングから離れたことを覚えたいと思って、キックをやるようになったんです。それが僕がキックを使うようになった動機ですね。

Q:自分の得意でないことでも、怖がらずにチャレンジすることで新しい武器になると?

そう思いますね。 チャレンジすることで自分に合うか合わないかわかるじゃないですか。いろんなことに手を出すから、「あ、これは合わないな」っていうのを知ることができるわけです。合わないものは捨てて、自分に合うものをまた見つける。別のものを見つけてやっていくうちに、今度、捨てていたものをまたやってみたら、その時とは違う感覚で自分にとって「これは合うな」と思えるかもしれない。たくさん武器を持つことができるんです。

Q:プロレスラーの方は、豪快で、お酒をたくさん飲んで、たくさん食べて…といったイメージが強いですが、その裏には冷静な自己プロデュースがあるんですね。

昔は、豪快にしなきゃいけないみたいな教えがあったんですよ。ただ、僕の場合は大学の体育会の合宿所生活を4年間過ごしたことで、そういう考え方ができたかもしれませんね。

Q:33歳で団体のトップに立ったわけですが、当時は主力選手の大量離脱があったりキックボクシングや総合格闘技の勢いにプロレスが押され始めた時期だったと聞きました。エースとして団体を支える立場に立って、特に意識したことはありますか?

そういうタイミングでベルトを獲ったからには、新日本プロレスという大きな看板の屋台骨にならなきゃいけないなと。そこで初めて、それまで10年間は自分のためだけにやってきたことが、自分だけではなく、他の選手のため、会社のためと考えるようになりましたね。当時は、新日本プロレスの30周年という追い風もありましたが、そういうものをぶち壊そうとする向かい風もたくさん来てた時代でしたね。それを矢面に立って、ずっと戦ってきたという自負はありますね。

Q:待ち望んだチャンピオンになったタイミングでの向かい風です。「運が悪いな」とか、ネガティブな思考が生まれたりはしかなかったのですか?

貧乏くじだとは思わなかったですね。あの時は、やってやろうというエネルギーしかなかったです。看板を背負う人間というのは、世間に注目させるような言動をどんどん発信していかなきゃいけないですし、ベルト持つ屋台骨の人間でお客が入るとか入らないが決まってくるから。自分の力が諸先輩に比べて、実力がないのはわかっていたんですよ。でもそれは自分から絶対に言えなかったし、背伸びして、でかいことを言って、とにかく自分の発言によって新日本プロレスに世の注目を向けさせることにエネルギーを使いましたね。

Q:責任感というか、中心である自分がやれることは全部やろうと?

僕がチャンピオンでお客が入らないって言われるのが嫌だったので、東京ドームとか都内の大きい会場の時は、営業もしましたよ。チケットを売るためにいろいろ夜動いたりもしましたね。あとは練習が終われば、道場の前にネタがほしいマスコミの方々がたくさんいるんですよ。朝刊紙、夕刊紙合わせて5~6社が集まってね。出ていくとほぼ毎日つかまりますし、道場に来ない時は事務所にいるんですよ。だから、事務所にちょっとしたことで行って、こういう話をしようとかね。無謀なくらいやってましたね。でも当時はそれぐらいのエネルギーはあったもので、今考えるといい経験をしたなと思いますね。

Q:なぜ、そこまでできたのですか?

先ほども言いましたが、自分が力不足だっていうのが分かっていたんですよ。でも最大限のこと、できることは100%やろうと。半年くらいメンタルもおかしかったですし、夜も寝れなかったです。ただ、選手の大量離脱だったりで、新日本プロレスがピンチに陥っている中で、僕のところにベルトが来た。そういうのも含めて、気落ちしている暇もなく、とにかく会社のため、他の選手のため、自分のためにも、ものすごいエネルギーが入ったんです。

永田さんの「THE WORDWAY」。次回♯2は、永田さんが逆境で大切にしてきた考え方、常識を変えるメンタルについて語ります。30年間のキャリアを振り返った時に見えた成功、失敗とは。スポーツ以外の世界でも生かせる、強く生き抜く「言葉」があります。

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PROFILE

◆永田裕志(ながた・ゆうじ) 1968年(昭43)4月24日、千葉県東金市生まれ。
千葉県立成東高等でレスリングを始め、日体大に進学。1992年に新日本プロレスに入門し、同年9月にデビュー。02年4月、第31代IWGPヘビー級王座を獲得し、当時歴代最多連続防衛記録となる10回の防衛を果たした。ノアのGHCヘビー級王座を獲得するなど他団体でも活躍。団体最年長選手となった現在も、果敢にベルトに挑戦している。得意技は、バックドロップ・ホールドなど。183センチ、108キロ。血液型AB。弟の克彦は、00年シドニーオリンピックのレスリング銀メダリスト。

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