Photo by Kondo Atsushi

「やり続ければコミュニケーションが増える。コミュニケーションによって言葉、経験、友達が増えていく。それが人としての潤いになる」

山田幸代 #1

2022年2月に “昨日の自分を超え続ける大人を増やす”というテーマのもと、「THE WORDWAY」がスタートし、これまでに15人のアチーバーの声を届けてきました。今回は2022年締めくくりの「特別編」として、THE WORDWAYを主宰する山田幸代が登場します。
山田は、ラクロスを始めた京産大在学中に日本代表に選ばれ、卒業後は日本人初のプロ選手として活動。2008年に単身強豪オーストラリアに渡ると、2017年のW杯に同国の代表として出場を果たすなど、日本ラクロス界の「パイオニア」として世界のトップで活躍を続けてきました。現在は選手としての一線は退き、国内外の様々なチームの強化に携わりながら、世界ラクロス協会の選手会理事、女子ルール委員会のチェアマンなどを歴任。ジュニア育成を中心に、競技普及に携わってきました。また自ら起業し、THE WORDWAYの運営やラクロスの国際マッチ「WORLDCROSSE(ワールドクロス)」を開催するなど、活躍の幅を広げています。道なき道を切り開いてきた歩みを振り返りつつ、THE WORDWAYを通して伝えたい思いなどを2回に分けてお届けします。

Q:今回はいつもと立場が変わり、アチーバーとしてお願いします。まずは、プレーヤー時代の話を聞かせて頂きたいのですが、高校時代まではバスケットボール、ラクロスは大学で始めたと聞きました。ラクロスとはどのようなきっかけで出会ったのですか?

中、高とバスケットボールを1年の360日ぐらいやっていて、大学に入る時には「もうやらない」と思っていました。満足したというか、全国を目指して全国に出て、目標を達成したことで次の目標が立てられなくなったんです。その時に新しく出会ったのがラクロスでした。「バスケットやめるぞ!」と言いながら、国体選考に呼ばれていたので、体力づくりのために何かやらないとなと思っている時に、たまたまゼミの友達から「ラクロスいいよ」って言われたのが始まりで、ラクロスというスポーツを全く知らなかったので、最初は「何それ」みたいな感じでした。

Q:そこからのめり込んだのは、どこに魅力を感じたのですか?

やり始めたら上手くできなかったんです。ラクロスってスティック1本で全て完結してしまうスポーツで、ボールを取って投げて拾って打つ。それができないことに対してワクワクして、「上手くなりたい、上手くなりたい」みたいな感覚で、どんどんハマっていきましたね。

Q:バスケットボールとは違う魅力があったと?

バスケットは敷かれたレールの上を走っているイメージだったんです。高校は推薦で入って、先生もコーチ、チームメイトも既にいたので、どうやって目標を達成していくために日々努力するかを学んできて。ラクロスってグラウンドも自分たちで取らなければいけなかったり、コーチもチームメイトも探さなきゃいけない、そのギャップが面白くて。自分の主体性というか、今まで目標達成のために一歩一歩与えられた課題をクリアしていくという6年間を過ごしてきて。ラクロスになって与えられる課題すらなく、課題を自分たちで作っていく、そこのギャップが面白かった、それが大きかったなと思いますね。

Q:山田さんは長年ジュニア世代の育成や、競技普及にも取り組んでいます。新しいことに挑む姿勢は、どのような世界でも大切だと思うのですが、自身の経験を振り返って、どのような環境が、開拓心や挑戦心を育むと感じますか?

私自身は、両親に様々な機会をきっと与えてもらってきたことをすごく感謝しています。小さいころの習い事でいえば、バドミントン、水泳、卓球、剣道、野球、お琴、習字、そろばん・・・英語もやっていました。そうやっていろんな経験をしたことで、「あ、これ知ってる、これ知ってる」っていうのを掴み始められるのが早かったんだと思うんです。ラクロスを始めたときも、スティックを使うのは「バドミントンみたいにやるのかな」とか、走る時も「これはバスケットみたいにやるのかな」とか、「このシュートのリズムってピアノみたいにやるのかな」とか、いろんな経験から「知ってる、知ってる」を積み重ねていけたと思うんです。その過程がまた楽しかったですし、「知らないこと、知ってること」っていう経験をさせてもらっていたから、ラクロスの中で自分の良さというか、自分しかできないことっていうのを見つけられたのかなとも思いますね。

Q:成長するために過去の経験を次の経験に活かすことはすごく大切だと感じます。頭の中で整理して、経験を次につなげていくためのヒントはありますか?

やりながら気づいていったことなのかなと思いますね。私は整理をするっていうのがあまり得意じゃなくて、頭の中にドーンといろんなものを入れて、その頭の中のものを走りながら「これかな、あれかな」って引っ張ってくるようなイメージです。それだけではだめだと後にすごく感じるのですが、当時は頭の脳の中に大きな引き出しが1個あって、そこにとにかく経験を積んで、突っ走りながらやっていたと思います。

Q:大学卒業後の05年には大手通信会社に入社し、営業職として社内トップセールスを記録したそうですが、07年にはプロ宣言し、日本人初のプロラクロスプレーヤーになりました。競技と仕事の両立の難しさは感じていたのですか?

元々ラクロスはプロも国内リーグもないので、仕事をしながらラクロスをするっていう二軸でやるのが当たり前だったんですが、私はラクロスを始めた時から、『子供たちの夢の1つに「ラクロス選手になりたい」と思ってもらえるスポーツにしたい』っていう夢を持っていたんです。それ以前の「保母さんになりたい」という夢と、大好きな子供たちと大好きなラクロスの2つを重ねて、新しい夢を持てたんです。そうしている中で、「プロになるか」と言ってくださった企業さんに出会えてたので、「子供達にも、プロ選手が1人でもいたら夢になるんじゃないか」という思いから、「やります」と言ってプロになりました。

Q:プロ宣言の翌年の08年には強豪オーストラリアに渡る決断をされました。安定した日本での生活を捨てての挑戦だったと思うのですが、迷いはなかったのですか?

私の中で、日本代表になることがゴールでもないし、日本を強くしたいとか、メダルを取りたい、世界大会で勝ちたいっていうのが目標でもなくて、子どもたちの選択肢を増やすこと、ラクロス選手がその選択肢の1つに入ることというのが、自分の中の夢、一番大きな目標だったので、オーストラリアに行くことも、プロになることも、普及活動をやることも全てその過程でしかなくて。だからこそ、怖いというのはなくて、世界を見て何が日本と違うんだろう、日本がメダルを取るようなチームになったら子供たちに見てもらえるんじゃないかとか、そういった先の目標というか、自分の夢を持っていたので、恐怖心も感じなかったですし、「なんとかなるわ」と思ってオーストラリアに行きました。

Q:明確な「夢」があるからぶれずに進むことができたというのは、これまでのTWWでも何度も出てきたテーマだと思います。「こうなりたい」とか「これを実現したい」と思う時に、その手前のステップに対して、山田さんはどのように向き合っていますか?

やっぱり夢の間にはいろんな分岐点と言うか、到達点があるんだろうなと思っていて、それはバスケットから学んだ部分でもあるんですけど、短期、中期、長期の目標は常に持っていました。 目標は別に変わってもいいと思うんですけど、私は長期の目標はずっと変わらなくて、その中の短期、中期の目標はどんどん変わっていました。目標っていうのは、ペットボトルとか、丸い筒のようなものなんだろうなと思っていて、真正面から歩いていったらラベルしか見れないんですけど、後ろから見たら違う文字が書いてある。だから真正面からしか見えないものなんて無いと思うんです。歩きながら間違えたら道を戻って変えればいいし、そのかわり「一番先にあるもののために進む道を変える」というのは、常に自分の中で意識していることだと思います。

Q:「なんとかなるわ」でいったオーストラリアでの競技生活は14年間も続きました。苦しい時期、壁を乗り越えるのに苦労したこともあったと思うのですが?

1つは語学ですね。言葉っていうのは、やっぱり伝えることで伝わることっていうのがすごく大きいなと感じました。初めに行った時はボールももらえなかったですし、コミュニケーションも取れなかった。オーストラリアに行くことに怖さはなかったですけど、行ってから怖くなりました。やっぱり何も伝わらない、想いが伝わらないっていうのがこれほど怖いことなんだっていうのは感じました。

Q:プレーヤーとして壁を感じたり、それによって自分自身に変化はありましたか?

ボールをもらえない1年ぐらいが過ぎて、だんだんコミュニケーションが取れるようになってくると「頑張ってるね」っていう感じのお客様扱いされるような期間が2年ぐらいありました。でも自分のレベルがどんどん認めてもらえ始めてきて、同じぐらいのレベルに到達したと認識されると、次は逆に落とされ始める。「アジア人に負けるか」「ポジションなんか取らせるか」って目の変わり様だったり、行動だったりに変化をすごく感じました。それが、悔しかったですけど嬉しくもあったんです。それって世界大会でも一緒なんですよね。日本が頑張っている時はすごく称賛されるんですけど、同じぐらいで戦い始めたり、目の色が変わった時に全然レベルが違う選手が出てきたり。下に見られている時は「グッジョブ」と言われるけど、目の色を変えさせないと、本気の彼らの強さは出ないなっていうのを感じましたね。

Q:相手を本気にさせないと、日本のレベルも変わらないし、山田さんの夢である「ラクロスを子供たちの夢の1つにしたい」というステージにはたどり着かないと?

そうですね。彼らが本気の力を出している所に入っていかないと、日本にこのレベルを伝えられないと感じたんです。だから、オーストラリアに「移籍」することを決めたんです。オーストラリア代表になって、世界のトップ3の本気になった選手たちの中で揉まれることで、日本で伝えられることがある。ラクロスは人生で1回しか「移籍」ができないので、オーストラリア代表を目指したら、その時点で日本代表には戻れないんですけど、私のゴールはそこじゃなかったのでオーストラリア代表にチャレンジして、「指揮官として日本に帰るぞ」と考えを変えましたね。

Q:日本代表としてのプレーという選択肢を失うことに迷いはなかったのですか?

まったくなかったですね。「日本代表として世界大会に出場したい」っていう以上に、世界のトップを見ることが日本を強くするなと。2008年にオーストラリアに行って、2011年までのその3年間で、私1人がオーストラリアを経験して帰って選手としてやっても、これじゃ変わらないと思っていたので「自分が世界のトップを見て伝える役目だ」っていうのを、その時に感じていました。オーストラリア代表になるまで、そこから8年かかるんですけど、その中で学んできたことは多いなと思いますし、その挑戦によって日本に残せたものは大きいなと思います。

Q:大きな目標を立てて、そこに向かって進んでいく中で、それが正しい道なのかと悩んだり、白か黒がはっきりしない中で挑戦を続けていくのは、簡単ではありません。オーストラリア代表に挑んだ8年間、どのように自分自身を鼓舞していたのか、高くモチベーションを保つため、どういった工夫をされていたのですか?

日本代表になるまでの過程と、オーストラリアになるまでの過程というのは全く違って、日本代表は受かるかどうか、一か八か最後しか分からないんですけど、オーストラリア代表は始めに200人ぐらいからトライアウトが始まって、何度もキャンプを重ねて2年かけて18人に絞るんです。その過程の中でトライアウトの後に必ずフィードバックがあったことが大きかったと思います。首脳陣から毎回呼ばれて「あなたはこれが素晴らしかったし、ここを伸ばして欲しい」というフィードバックを毎回もらうんです。だから、自分の位置が常にわかりましたし、必要な部分や足りないところ、自分が人よりも長けてるところがすごく納得しやすかったんですよね。

Q:「フィードバック」はビジネスシーンでも人材育成の面で大切にされています。納得感があることが前に進む原動力になったということですか?

そう思います。フィードバックがあることで、自分がチャレンジしたことがいいのか悪いのかわからない期間があまりなかったですし、常にチャレンジし続けられたと思います。フィードバックをもらった後に自分の思いを伝える機会をもらえたりすることで、お互いの心が通じ合ったり、本当にファミリーのような、200人いたら200人がその過程を通じてファミリーになっていく期間を体験してきましたし、自分の変化が楽しかったんです。人から言われるアドバイスに対して自分が考えたことがマッチする瞬間っていうのがすごく楽しくて、「じゃあ、これしよう」「じゃあ、これをやってみたい」「これって何なんだっけ、誰に聞けばいいんだっけ」っていう1に対して10の自分の意見が出てくるようになっていったんです。それがオーストラリアの代表になるまでの8年間の中で一番学んだことだと思いますね。

Q:具体的に印象に残っているフィードバックや、山田さんを成長させた言葉はありましたか?

2013年のワールドカップで代表に入れなくて、次の2017年のワールドカップを目指していく中で、私が恩師だと思っているオーストラリアのコーチからのフィードバックで「あなたにはピジョンホールがない」と言われたんです。「落とし込む穴がない」っていう意味なんですけど、私は頭の中に大きな引き出しがあって、その中にいろんなものを詰め込んで、自分で探って進んでいったんですけど、何かを達成しなきゃいけない時に、それが本当にこれで正しいのかっていう自分に問いかける時間が必要だと指摘されたんです。「引き出しをもっと増やしなさい」と言われていて、そこから自分の頭の中の整理ができるようになったんです。

Q:「ピジョンホール=小さな仕切り棚」のような意味だと思うのですが、感覚でやっていたプレーに理由を求めていったり、選択が言語化できるレベルを求められたということですか?

その通りです。「今、この場面だったらここの引き出しだな」とか「このホールだな」っていうので、どんどん自分の頭の中に入れたものを抜いていける。今、学生たちを指導する時にも、「私が持っている答えを答えだと思っちゃいけない」と常に言い続けています。あくまで、私の答えは彼らのヒントなので、そのヒントをどこの引き出しに入れていくかっていうのは彼ら次第で、そこは私では決められない。だからこそ、大きなたくさんの情報を伝えたり、感じとってもらったり、「これなんじゃないか」って私の答えを伝えることで、彼らが自分自身で答えを導き出していけるような、そういう伝え方っていうのを心がけています。

Q:14年間オーストラリアで戦い続けた中で多くのことを学ばれたと思うのですが、山田さんが特に大切だと感じたことはありますか?

そうですね。やり続けることでコミュニケーションが増えるということだと思いますね。コミュニケーションが増えると、言葉も経験も、友達もファミリーも増えていく。それによって、自分の生活や、人として潤う時間が長くなるじゃないですか。コミュニケーションを取ることで、人を否定しない事っていうのはオーストラリアでチャレンジしていく中で学んで、自分の答えを出せるところまで来たので、それは一番大きいなと感じています。

Q:TWWの理念にも重なる部分だと思うのですが、新たな挑戦をしようとしている人や、一歩を踏み出そうとする人へのアドバイスがあればお願いします。

挑戦し続ける事って、何でもいいんだと思うんですよね。自分の興味あることに一歩踏み出してみる。人っていろいろあると思っていて、0から1にする人、1から2にする人、1から10にする人、2から20にする人、いろんな人がいていいし、私はたまたま0から1にするシーンが多くて、それが好きで楽しかったから、情熱をかけられました。本当に小さなことでもいいので興味を持って「なんだろう」って見に行ってみる。手を出してみる。そういうことの積み重ねが大事なのかなと思います。

Q:結果を気にすることが視野を狭めてしまうと?

「これだけ見たい」と思ったら、人ってそれしか見えなくなっちゃうんで、そうじゃなくて、その周りを見て何が一番輝いているのか、光っているのかっていうのを見つけていくっていうのが、0から1なのかなって思います。そのためのヒントとしても、いろんな人の経験を聞いて、いろんな人との会話をしていくことが大事だと思いますね。

Q:THE WORDWAYではアチーバーの方を変えた言葉、大切にしている言葉を聞いています。山田さんにとっての特別な言葉を聞かせてください。

「人生おひとり様1回限り、楽しまなきゃ損でしょう」ですかね(笑)。 「SUN」かな。私のバスケットのときのコートネームなんですが、先生から「あなたは太陽のような笑顔を持ってるからSUNよ」ってはじめに言われたんです。常に光が当たったり、光を当ててあげたり、自分が輝くところに周りが輝いていくっていうのが太陽だと思うので、だからこそ輝けるために常にチャレンジし続けることが、周りを照らすことにもなるのかなと思うので、やっぱり私の大事にしたい言葉はSUNですかね。

Q:ありがとうございます。最後に山田さんのこれからの目標について聞かせてください。

私の役割は明確になりつつあって、「機会を作る」ってことだと思っています。なので、色んな場面で誰かが輝ける機会を作っていくということに注力していきたいし、それが人を輝かせたり、子供たちが見る未来が輝いたりしていくものになると思うので、いろんなことにチャレンジをしていきたいですね。

Q:山田さんに憧れてラクロスを始めた選手は少なくありませんし、マイナー競技の選手からも多くの支持を得ていると感じます。「ラクロスを子供たちの選択肢の1つにしたい」という夢には近づきつつありますか?

大学生もそうですし、子供達もそうですし、「僕、ラクロス選手になりたいんだ」と言って、オーストラリアに行く機会を自分で作ってくれた小学3年生がいて、その子の話を聞いたりすると、すごく心が熱くなりますね。なので、そういう機会っていうのは、私が作った機会っていうよりは、みんなが見つけてくれた機会だと思うので、だからこそいろんなところに広げていく役割っていうのを引き続きしていかないといけないなと思います。もっともっと輝く子どもたちを見たいので、自分に出来る限り、やれることを一つ一つやっていきたいなと思っています。
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PROFILE

■山田幸代(やまだ・さちよ)1982年8月18日、滋賀県出身。2001年大学と同時にラクロスを始め、翌年に、年代別の日本代表に選出される。その後は数々のタイトルを獲得し、2005年には日本代表としてワールドカップに出場。5位入賞の原動力となる。また、2005年には大学を卒業し、某大手通信会社に就職。社内でトップセールスを記録するなど、プロ活動を始めるまで営業職とラクロスを両立していた。2007年9月にプロ宣言し、オーストラリア代表としても活躍。現在は日本初のプロラクロス選手として活躍中。スポーツアンカーとしても活動し、数々の番組に出演中。

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